雑学

比叡山焼き討ちの嘘

「織田 信長」公のイメージを問われると気が短くて冷酷な人物だったと答える人が多いのではないでしょうか?学校とかは歴史の授業で教える織田信長はそんな感じですし。「尾張の大うつけ」と言われていますが、沢山の家臣から慕われているのも事実です。学校の授業で教えている織田信長は正しいのでしょうか?

彼の冷酷さを印象付けた出来事の一つが「比叡山焼き討ち」です。

1571年9月12日、延暦寺(えんりゃくじ)の根本中堂(こんぽんちゅうどう)(延暦寺の総本堂)をはじめ、400から500の堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物)を全て焼き払い、逃げ回る僧や女、子どもまでを片っ端からとらえて首をはねたと言われています。その犠牲者は3000人以上と伝えられています。

何故、このような事が起こったのか?

当時の延暦寺は、多くの僧兵を抱えていたことで、その武力を背景として軍事組織ともいえる巨大な力を有していました。その事と同時に、織田家とは敵対関係にある浅井・朝倉軍に加担しました。織田信長からすれば、敵対行為に写っても仕方ありません。

さらに僧侶たちは、戒律を守らない傍若無人ぶりで、朝廷も手を焼いていたそうです。「そんな寺なら、いっそ潰してしまえ」と織田信長は考えます。そして、冷酷極まりない比叡山焼き討ちを実行したとされています。

焼き討ちは、嘘だった

織田信長の比叡山焼き討ちは、伝えられているほど残虐極まりないものではなかったそうです。滋賀県教育委員会が比叡山で調査をおこなったところ、比叡山焼き討ちは史実に伝えられるもほど大規模ではなく、小規模の事だったそうです。

その根拠の一つが戦国時代の痕跡が殆どでなかった事です。根本中堂や大講堂は、焼かれた痕跡があったそうですが、その他の焼け落ちたとされる堂宇の大半は、伝えられている日付の時は既に焼け落ちていたそうです。織田信長が比叡山を焼き討ちする以前から、延暦寺はすっかり寂れた状態だったようです。

さらに比叡山の山中からは焦土層がさほどみつかっていないことも、大規模な焼き討ちがなかったという事を証明しています。

焼き討ちの真実

当時僧侶たちが活動基盤にしていた山麓の坂本の町の事だそうで、数も3000人には遠く及ばないそうです。

では、なぜ織田信長の比叡山焼き討ちを残虐で冷酷な事件だったように伝えられたのでしょう。比叡山焼き討ちについては、公家の山科言継(やましなときつぐ)の「言継卿記(ときつぐきょうき)」や、女官たちの「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」などの記述がもとになっています。

事細かく話が描写されていましたが、これを書いた筆者は当時京に居て実際に現場にて見ていた訳ではなく、織田信長の比叡山焼き討ちについて京に伝わるまでに、話に尾ひれが付き、それがあたかも真実かのように後世に伝わったようです。

まとめ

僕も実際に見たわけではないのですが、比叡山焼き討ちは教科書の歴史とは違うようです。他の事は事実なんでしょうね。

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